シロノミヤクマコ戦記

これは嵐・Sexy Zoneに支えられ、なんとか生きてるアラサー独女と、最大の敵「生きづらさ」との戦いの記録である

ジャニオタ☆クマコの軌跡③~念願の生ニノさん編~

みなさん、こんにちは。

今回も前回に引き続き、ジャニオタとしてのクマコの軌跡を、嵐への溢れんばかりの愛をともにご紹介していきたいと思います。

 

前回のお話はコチラ↓

 

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

それでは、「ジャニオタ☆クマコの軌跡」第三章…念願の🈠生ニノさん

 

はっじま~るよ~

 


 

あまりの悔しさからファンクラブ入会を決意したクマコ

 

クマコが嵐のファンクラブに入会したのは2004年の春でした。

今となっては、せっかく早い時期に嵐に出会えたのだからもっと早く入会しておけば・・・

と思うのですが、入会金5000円と年会費の4000円は、当時の私にとっては大金でしたので、なかなか入ることが出来ませんでした。

それに、クマコの住んでいるところが都会的な方ではなかったせいなのか、時代のせいなのかは分かりませんが、当時の私の周りにはアイドルのコンサートに行ったことがあるコはおろか、ファンクラブに入会しているコは1人もいなかったので、『ファンクラブに入る』という概念も中学生になるまでは思いもつかなかったのです。

 

また、クマコは相当に過保護で、ほどほどに保守的な家で育ちました。

あれは、2002年頃だったでしょうか。

1度、新聞の番組欄に嵐のコンサートチケットがプレイガイドで売り出されているという広告を見つけ、『コンサートに行きたい!!』とお願いしたことがあったのですが、クマコがまだ小さかったこともあり、まったく取り合ってもらえず、涙をのんだことがありました。

(確か「ARASHI STORM CONCERT 2003 新嵐 ATARASHI ARASHI」の名古屋公演だったと思います。)

 

その後、2004年の夏に行われたツアー「2004 Dの嵐! Presents 嵐! いざッNow Tour!!」で、地元の静岡県での公演があることを知り、グッズだけでもと会場に行った際、チケットがとれなかった他のファンの方たちとともに、会場の外でかすかな音漏れを警備員さんに威嚇されながら聞くという、いわゆる音漏れ参戦を初体験します。

(実は、この時も母に連れて行ってもらいました。)

 

近くに憧れ続けた嵐がいるのに、会うことはおろか、ひと目姿を見ることすら出来ない。

そのあまりの悔しさから、ついにファンクラブに入会することを決意!!

(今では、警備員さんはお仕事ですし、音漏れ参戦は時に嵐さんたちに迷惑をかけてしまうこともあると理解していますので、当時のこの行動については反省しています。)

 

そして、クマコが高校生になるころには、私の嵐への情熱を理解してくれた両親が、東京などへの遠征にも協力してくれるようになったのです。

クマコが通っていた高校は、バイトが禁止でしたので、私だけでは金銭的にも遠征はとても厳しかったので、両親には本当に感謝しています。

 


 

6年越しの想いが叶った舞台「理由なき反抗」


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そんないきさつがあって訪れた2005年。

前回お話ししたフィルムフェスタも経て、憧れの二宮くんへの想いが募りに募ったクマコのもとに、ようやくそのチャンスが訪れます。

それが、舞台「理由なき反抗」でした。

ここで「理由なき反抗」について少しおさらいを。

舞台「理由なき反抗」

【日程】

【脚本】堤 幸彦/中津留 章仁

【演出】堤 幸彦

【出演】二宮 和也  [ジム]

    貫地谷 しほり[ジュディ]

    郭 智博   [バズ]

    豊永 俊行  [プレイトー]

    野添 義弘  [レイ]

    大島 蓉子  [家政婦]

 

【あらすじ】

暴力事件を起こし、新しい街への引っ越しを余儀なくされた17歳の少年ジムは、家族やあらゆるものへのイラ立ちを抱えていた。

ある夜、お酒を飲んで酔っ払ったジムは、身に覚えのない暴行事件の犯人として捕まってしまう。

警察署で出会った同級生のジュディプレイトーも、同じく家族へのイラ立ちを抱えていた。

大人への不信感を募らせる3人だったが、少年保護係であるレイのおかげで帰宅を許される。

翌日、転校先の学校で再会したジュディは、バズが率いている不良グループの仲間だった。

ジムに目をつけたバズは、ことあるごとにジムを挑発してくるが、プレイトーの助言もあり無視を決め込むジム。

しかし、ついに我慢が出来なくなったジムはバズとケンカになり、チキンレースで決着をつけることに。

崖の上で初めて2人きりになったジムとバズは、お互いを友人として認めあったのだが、レースの最中、バイクのブレーキが故障してしまったバズは、崖から落下して亡くなってしまい・・・。

 

当時のチケットとパンフレットがコチラ。


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ハンドク!!!」や「Stand Up!!」、「ピカンチ」シリーズなどでタッグを組んだことのある堤幸彦監督の脚本・演出で上演された舞台。

恥ずかしながら、1度しか見に行けなかったクマコは、内容のほとんどを忘れてしまっていたのですが、その当時までで6年間好きだった人にようやく会えた喜びと衝撃は決して忘れることはありません。

 

クマコが行ったのは4月9日㈯の13:00開演の回

舞台自体、初めての観劇でしたが、母と一緒に行った2つの座席の内、1つが通路に面した席だったので、野生の勘がはたらいたクマコは、もしかしての期待も込めて通路側の席に座ることにします。

 

そして、なんと!!その期待と予想が見事に的中し、舞台の演出のひとつとして、その通路を二宮くんが通っていったのです!!!

 

右側を見上げた、私の視線の先・・・

金髪風オールバックヘアーの二宮くんが伏し目がちに通っていく

 

あの時の興奮を言葉で表すのは難しいですが、喜びも超えた興奮感慨深さのような気持ちと、とにかくハッピーな気持ちで胸がいっぱいになりました。

舞台の内容をあまり覚えていないのは、その興奮のせいであったのではないかとも思います。

 

二宮くん演じるジムが悲痛な叫びを上げたところで、物語が終了し、カーテンコールで何度も二宮くんが出てきてくれた後、舞台は終演。

終演後は、初めて二宮くんを見ることが出来た興奮や、生のお芝居の熱量に圧倒され、足元がフラフラしていたことを、今でも思い出します。

 


 

今回は、初めて生の二宮くんと出会えた時の、クマコにとってかけがえのない大切な思い出についてお話してきました。

改めて思い返してみると、当時の会場の様子や興奮を、自分で思っていた以上に覚えていることに気付き、とても有意義な時間を過ごすことが出来たと思います。

あくまでもクマコ自身にとっては、の話ですが・・・(笑)

 

 

さぁて次回のお話は~??

クマコ、いよいよコンサートに参戦する!!です。

興味のある方は、また遊びに来てくださいね。

それでは。

こんな自己満足な文章にお付き合いくださって、ありがとうございました。

 

 

 

つづきはコチラです↓

 

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

 

ジャニオタ☆クマコの軌跡②~初めてのなまあらし編~

みなさん、こんにちは。

今回は、前回に引き続きジャニオタとしてのクマコの軌跡を、嵐への愛とともにつづっていきたいと思います。

 

クマコがジャニオタとして目覚めた際のお話はコチラ↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 それでは、「ジャニオタ☆クマコの軌跡」第二章…クマコ、初めて生の嵐に出会う

 

はっじま~るよ~

 

 

呼ばれて飛び出て嵐ジャン!!!フィルム・フェスタ2003


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クマコが初めて生の嵐に合うことが出来たのは、嵐を好きになってから数年経った、2003年のことでした。

 

2003年7月9日に発売された、嵐にとって3枚目のオリジナルアルバム「How's it going?」の初回限定版に封入されていた応募券をハガキで送った(ネットでも応募可でしたが、当時のクマコ家にはネット環境がなかったので)ところ、なんとも幸運なことに「嵐 How's it going? 呼ばれて飛び出て嵐ジャン!!!フィルムフェスタ2003」に当選して、参加できることになったのです。

これがアルバムに入ってたお知らせの画像です。
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ちょっと折れたりしているところはスルーしていただいて・・・。

しかし、これはかなり懐かしい!!

 

実はクマコ、ひとつ前のアルバム「HERE WE GO!」のときも応募したのですが落選しまして・・・。

落選者が貰える、いわゆるB系のイラストが描かれたシールをいただいていました。

『せめて顔写真のものにして欲しかった・・・』

と思ったシールがこちら↓
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ひとつ使ってしまったところに、自分の若さを感じます(笑)

今だったら絶対に使わないで全部とっておきますよ!!

 

・・・とまぁそんな過去があったため、当選のお知らせが送られてきたときは、それはもう相当に舞い上がりました。

 

クマコが参加したのは、2003年9月28日に行われた名古屋公演の3回目。

今はもう潰れてしまった名古屋のライブハウス「OZON」で行われたので、当時中学生で静岡在住のクマコは、父親に車を運転してもらい、さらに母親にもついて来てもらうという過保護極まりないスタイルでの参戦となりました。

車の中ではもちろん!「How's it going?」をエンドレスリピートして気持ちを高めていましたよ。

今思えばこの頃から、家族を巻き込んで嵐を応援していたんだなぁと・・・。

家族への感謝の気持ちを忘れないようにしたいクマコです。

 

 

初めてのなまあらしは大好きな二宮くん!?

 

嵐 How's it going? 呼ばれて飛び出て嵐ジャン!!!フィルムフェスタ2003」は

  •  9/14 東京
  •  9/15 札幌
  •  9/28 大阪・名古屋
  •  10/5 福岡

という日程で行われたのですが、ご覧のようにクマコが行った名古屋は、大阪と同日に行われたため、メンバーが2:3に分かれて会場に来ていました。

その分担は事前には知らされず、今のようにスマホなんてない時代ですから、会場に入るまでは誰が来ているのか分からない!というドキドキのシチュエーションです。

 

今では、嵐のメンバー全員を同じように愛しているクマコですが、その当時は二宮和也くんだけが好きだったので、『どうしても二宮くんに会いたい!』と思っていました。

 

そんなクマコの願いは届いたのか・・・

果たして結果は!?

 

 

 

 

しばらく会場の外で並んでから、応募者本人しか入れないため両親と別れ1人で入った会場。

先に入場していった方が走っている中、係りの方の「走らないでください!」を忠実に守るクマコ。

しかし、入場順にステージの近くに行けるという無情の展開にジャニオタの厳しさを思い知ります(笑)

会場内には椅子はなく、オールスタンディングで行われたフィルムフェスタ。

会場の真ん中くらいに陣取ったクマコですが、背が小さいため、つま先立ちで見ることになりました。

今までの人生で、あんなに長い時間つま先立ちしていたのは、あの時が最初で最後です。

 

しばらく、アルバムの曲が流れている薄暗い会場内で待っていると、メンバーが登場する前に注意事項が放送されます。

そして嵐の軌跡についてのVTRが流れて、ついにメンバーが来る!!というところで突如、客席から『大野!!櫻井!!』コールが。

二宮くんの登場を待ち望んでいたクマコにとっては晴天の霹靂!!

『まさか・・・』

と思っていると、登場したのは、コールの通り大野智さんと櫻井翔さんでした。

その時のクマコのガッカリ具合と言ったら・・・。

今考えると、学校の教室のはじからはじ程の距離で嵐さんを見られたのに『何、罰当たりなこと言ってるんだ!!』という感じですが、当時は正直ガッカリしてしまいました。

世の中そんなに甘くない!!というのを身をもって知った中学生のクマコなのでした。

 

 

なまあらしで嵐の仕事への姿勢に感銘を受ける

 

フィルムフェスタでは、来られなかったメンバーからのビデオレターや「Lucky Man」のMV、ツアーの様子やDVDに入れられなかったお蔵入りVTRなど、様々な映像が流されました。

もう15年前のことなので詳しい内容は覚えていませんが、大宮SKの2人が布団かベットの上で抱き合いながら『お前が好きだ~』と言い合っていたVTRがあったことと、

(中学生の女子にはとても刺激的でした)

 

USO!?ジャパン special summer ARASHI 2003 How's it going?」のツアーグッズにあった嵐のメンバーそれぞれの顔面のアップが印刷されたフェイスタオルについて、翔くんが『あのタオルを使って顔をふかれたら恥ずかしくない?』みたいな話をしていたことを覚えています。

ネットで調べると、その当時に書かれた詳細な内容のブログなんかも出てきますので、気になる方は調べてみて下さいね。

 

さて、こうしてクマコにとって初めての生嵐さんとの出会いは、しびれるつま先の感覚とともに、記憶に深く刻まれたわけですが・・・

このイベントのなかでとても印象的だったのは、翔くんと大野さんがVTRの再生中に、会場が暗くなってもずっとステージ上にいてくれたことです。

1日に何回も行われるイベントで、どこの会場でも同じような映像を流しているであろうに、ずっとステージにいてファンといっしょに映像を見上げてくれていた姿は、今でも忘れません。

そして、最後の方でファンの方の1人が気分が悪くなってしまったのですが、その時の2人の対応がとても優しくて、頼もしくて。

突然のハプニングでも会場のみんなを不安にさせない2人は本当にすごいなと思ったことを覚えています。

中学生ながら、嵐さんたちの仕事への姿勢、そしてファンへの思いやりに感銘を受け、さらに嵐が好きになったクマコでした。

 

 

 


 

 

 

初の生嵐さんに会って、ますます嵐という沼?にはまっていったクマコ。

次回はついに、憧れの二宮くんに会えるのか~!?

興味のある方は、また遊びに来てくださいね。

 

それでは、さようなら~。

 

 

続きはコチラです↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

 

ジャニオタ☆クマコの軌跡①~衝撃の出会い編~

みなさん、こんにちは。

今回からは、ジャニオタとしてのクマコの歩みとともに、嵐さんへの溢れんばかりの愛についてお話ししていこうかと思います。

 

クマコ自身についてはコチラをご覧ください↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

心に残っていることを、少しずつお話ししていきたいので、長くなってしまうかもしれませんが、ご興味のある方は是非覗いていってくださいね。

 

それでは、題して「ジャニオタ☆クマコの軌跡」第一章…衝撃の出会い

 

はっじま~るよ~

 

 

ジャニオタへの第一歩は彼との衝撃の出会いから始まった

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クマコとジャニーズとの出会いは、今では伝説となったあの!人気番組「8時だJ」を見ていた、小学校2年生の頃に遡ります。

今となってはほとんど内容を覚えていない、その番組で、その後のクマコの人生を左右する衝撃的(ではないけれど、今考えるとそれくらい大きな出来事でした)な出会いを経験したのです。

 

それがのちに、国民的アイドル嵐のメンバーとなる二宮和也くんとの出会いでした。

ヤル気がなさそうなのに、なんでもさらっと出来ちゃう。

今でいう塩顔男子なジャニーズJr.の彼が、どうしてか気になって。

その出会いの後に放送されたドラマ「アブない放課後」を見終わるころには、すっかり恋におちていました。

 

とはいえ、その時のクマコはまだ小学生も中学年くらい。

アイドルをどうやって応援するのか、その方法すらも分かっていないお年頃でしたので、二宮君がその後、嵐としてデビューしたことも、たぶん知らなかったのではないかと思います。

それでも二宮くんが出演していたドラマ「涙をふいて」は毎週欠かさず見ていましたし、Mステで「感謝カンゲキ雨嵐」を披露したときの、二宮くんのヘアピンをつけた髪型を見て『なんて可愛いんだ!!』とクラクラしていたことは今でも覚えていますので、そのくらいには、嵐の、そして二宮くんの動向は追っていたようです。

 

 

本格的にジャニオタへの道を歩み始めるクマコ

 

その後、成長とともに嵐が掲載されている雑誌のスクラップを始め、CDを買い、出演しているテレビをビデオで録画して・・・といった今のスタイルに近いことをやり始めたクマコ。

 

ちなみに、クマコが初めて買った嵐のCDは、嵐初のベストアルバム「嵐 Single Collection 1999-2001」。

初めて買ったシングルは、「a Day in Our Life」でした。

嵐がチャレンジを重ねていた、いわゆる「オラオラ期」(クマコはそう思っている)に突入した頃、私も本格的にジャニオタとしての道を歩み始めたわけです。

 

当時のクマコは、この嵐さんの「オラオラ期」のCDについては、急に曲調が変わったり、ジャケットが写真ではなくイラストになったり、CD自体が小さいサイズになったり・・・。

『急にどうした!?』という戸惑いや、『普通のサイズのCDでジャケットも写真がいいな』と、ちょっぴり不満にも思っていたのですが。

今思い返せば、この頃のチャレンジがあったからこその今の嵐さんなわけですから、嵐さんの歴史的に重要な時代をともに過ごせた、というのは、とても誇らしいことですよね。

それに、シングルを500円で売ってくれたり、アルバムを2500円で発売してくれたりと、小学生のお財布事情にはうれしいチャレンジもいっぱいありました。

 

 

 

 

そんなこんなで、小学生にして本格的なジャニオタへの道を歩み始めたクマコ。

そこから20年近く、嵐さんを応援していくことになるわけですが・・・。

それはまた次のお話で。

 

それでは、みなさん。

またお会いしましょう。

 

 

つづきはコチラ↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

 

これまでのクマコ③~彷徨える社会人編~

みなさん、こんにちは。

今回も、前回に引き続きクマコのこれまでの人生について書いていこうと思います。

前回のお話はコチラ↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 長々と書いてきましたが、今回で最後になりますので、今少しのお付き合いをお願い致します。

 

それでは、「これまでのクマコ」第三章にして最終章…さまよい続ける社会人のクマコ

 

はじまり~はじまり~

 

 

 

 どん底のクマコを救った嵐

 

初めて自分で掴み取った居場所であった高校から、通信制の高校に転校したクマコ。

今までの仲間から離れ、急にひとりぼっちになってしまった気分でした。

週に1回の通学で大丈夫な新しい高校生活が始まると、これまで勉強に費やしていた時間から解放され、暇を持て余すようになった私は、新たな仲間を求めてバイトを始めます。

お金も欲しかったけれど、とにかく早く、新しい居場所が欲しかったのではないかと思います。

そんな想いで行ったバイト先の男の子に、1番気になっていた体型について悪口を言われ、自分でも驚くほどに傷ついて動揺したクマコ。

そのまま、そのバイトには行くことが出来なくなり、学校にも行けなくなってしまいました。

 

この頃から「人の悪意」というものに、それまで以上に過敏に反応するようになっていったように思います。

 

そこからは下り坂を転がるように気持ちがどんどん落ちていって、それとともに体重もどんどん増えていって。

最終的に体重は73㎏にまで到達。

毎日をどん底の気分で過ごすようになりました。

今まで築き上げてきたものが、あっけなく崩れていくことの恐ろしさに泣いて。

今までの仲間が将来に向けて頑張っている中、どこにも進めない自分がもどかしくて泣いて。

毎日毎日泣き続けて、薬の影響でハイになる日はあっても、やっぱり悲しくて空しくて。

『手首を切ったら楽になれるのかな』とも考えて、でもそんな勇気はなくて。

 

それでも泣くのは一人の時か母親といるときだけで、父親の前では気を使って、いつも通りの自分を演じていました。

そんなある日のこと、毎日泣く私の相手に疲れてしまった母親に、『カラ元気でも笑っている方がいい』と言われてしまったクマコ。

母にしか本音を言うことが出来なかったのに、その母にも本音を言えなくなり、母の前でも泣くのをやめました。

クマコは、これ以上、迷惑をかけて母に嫌われるのが怖かったのです。

 

だけど心は悲しいままで、その気持ちを表せなくなったら、もっと悲しくなりました。

 

そんな風に苦しい毎日を過ごしていたクマコを救ってくれたもの。

それは、クマコが大好きなさんたちでした。

どん底の気分のまま行ったコンサートで、松本潤さんの言葉に心を救ってもらい、久しぶりに気持ちが明るくなったクマコ。

少しだけ前向きになることが出来ました。

そのコンサートについては、またの機会に詳しく書きたいと思います。

 

 

クマコ新たな居場所を得る

 

嵐のおかげで少し前を向いたクマコ。

その後も、かつての仲間と共に卒業できなかったことが辛くて高校の卒業式に参加できなかったり。

みんなが大学に進学して、新たな道を歩み始めているのに、自分だけ取り残されてしまったような孤独感に押しつぶされそうになったりと、色々な想いを抱きながらも、嵐にもらった希望の光を抱きしめて、なんとか生き抜いていきます。

 

(と、思っていたのですが・・・

この頃の、この気持ちを消化できないまま無理やり進んできたせいで、今でもこの頃の気持ちに苦しめられている気がします。)

 

短期のバイトを経験して自信がついたクマコは、新たにスポーツショップでバイトを始めました。

そのバイト先で、クマコにとって久しぶりに楽しい毎日が訪れます。

同年代の仲間も出来て、遊びにも連れて行ってもらい、年相応の女の子として恋もして、ちゃんとお金も稼いで。

まだ薬も飲んでいましたが、気持ちも落ち着いて、ダイエットもはかどるようになり、ようやく「人並みの自分」に戻れた気がしました。

少し自信も復活して、成人式にも行くことが出来ました。

 

しかし、そんな穏やかな毎日を過ごしていたクマコに、またも影が忍び寄ります・・・。

 

 

クマコ、ニートになる

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なにが原因だったのか。いつから始まっていたのか。

それは今のクマコにも確かなことは分かりません。

楽しかったはずの毎日が、どうして崩れていってしまったのか。

あの頃の自分を振り返ってみて、考えられることを書いていこうと思います。

 

バイトも続いて、少しだけ自信を取り戻したクマコは、専門学校に進学することにしました。

同級生より1年遅れで、ようやく進学出来ることに喜びを感じていたクマコでしたが、1カ月もたたない内に何故だか、学校に行けなくなってしまいます。

それは、周りの子たちに合わせることに疲れたせいなのか、県外の学校で通学が大変だったせいなのか・・・。

今となっては自分でもよく分かりませんが、せっかくお金を出してもらって通い始めた学校をすぐにやめてしまったこと。

この事実だけは確かで。

そして、『また両親に迷惑をかけてしまった。

その想いだけが強く残りました。

 

学校に通い始めるからと、土日だけにしてもらっていたバイト先の人たちには、すぐにやめてしまったとは言い出せず、空いた時間で自動車学校に行くことに。

しかし、その自動車学校も仮免許前にやめてしまい、どんどん自信がなくなって自己嫌悪に陥っていってしまいました。

この時の経験が、後のニート生活へと進む大きな原因のひとつではないでしょうか。

 

そしてもうひとつ、強く記憶に残っている出来事があります。

それは、バイト先で仲良くなった仲間たちに、自分の過去の経験(思春期痩せ症のことなど)を話すことが出来た、少し後のことでした。

その中の1人のおばさんに休憩時間に呼び出され、1対1の状況で『周りが見えていない』、『調子に乗っている』と注意されたのです。

久しぶりの楽しい毎日に、周りの人たちの気持ちを思いやることを忘れていたのでしょうか。

今となってはもう分かりませんが、そのおば様の目にはそう映っていたようで。

私のためを思って言ってくれたとのことでしたが、当時の私にはとてもショッキングな出来事でした。

この出来事はその後のクマコにも大きく影響を与えています。

自分ではそんなつもりはなくても、悪く思われてることがあるのだと痛感したことで、何をするにも考えすぎるようになっていきました。

 

こうして少しずつ、楽しい毎日に綻びが生じ始めた頃、バイト先にも変化が。

店長さんが変わったことで、みんなの雰囲気が悪くなり、それまでのように和気あいあいとした職場ではなくなってしまったのです。

それと重なるようにして、同居の祖父の病気が発覚。

色々なことが合わさって、クマコの体調はどんどん悪くなっていきます。

夜中の2時にならないと眠れない。そのせいで朝は起きられず、体中が痛くてたまらない。

そんな日々を過ごす中、バイト先で慕っていた社員の方に接客態度の消極性について叱られ、涙が止まらなくなり過呼吸に。

そうしてついに、ようやく見つけたと思った居場所からも去ることにしました。

もうとにかく、ゆっくり休みたい。

この時は、ただただその想いでいっぱいでした。

 

 

こうしてニートとなったクマコ。

その数か月か後、短期のバイトをしてみるも、やっぱり上手く出来ず、そんな自分に嫌気がさして、どこかに消えてしまいたくなり1人で遠くまで歩いてみましたが、結局すぐに帰ってきました。

あまりに早く帰ってきたので、親はこの時のプチ家出には気づきませんでした。

でも、このプチ家出のときの絶望的な気持ちは、今でも忘れることが出来ません。

また機会がありましたら、この時のことについても書けたらな、と思います。

 

 

ニートからの脱却、そして大好きな祖父の死

 

そうして、2~3年の間ニートとして過ごしたクマコ。

その日々は劣等感、罪悪感との戦いでした。

そんな気持ちが影響してか、毎日、朝起きると体中が痛くてたまらず、母のすすめで今の病院に通うようになりました。

2012年頃、サインバルタという薬を飲み始め、少しずつやる気を取り戻していったクマコは、2013年頃に短期の派遣から少しずつ仕事を始め、顔を出さなくてもいい着ぐるみの仕事が自分に合い、やっと仕事が続くように。

 

週1日2日の仕事をしばらく続け、調子がよくなったクマコは、2015年10月頃にスーパーのレジ打ちのバイトを始め、週4日働けるようになりました。

もう少しで、「普通の自分」に戻れる!!

そう思っていた矢先、年明けすぐに、闘病中だった祖父が自宅で倒れて救急車で運ばれました。

その後、家に戻ってくるも寝たきりとなり、容体も急激に悪化して、すぐに亡くなってしまったのです。

初めて家族の死を目の当たりにしたことの衝撃と、大好きな祖父を亡くした喪失感と悲しさ。

それは自覚している以上に大きな出来事だったようで、自分では気づかないうちに体調に変化が現れます。

時を同じくして、好きだった着ぐるみの仕事が、会社の都合で出来なくなってしまい、そのこともクマコの気持ちを辛くしました。

 

3カ月に1回というペースで熱を出して寝込むようになったクマコ。

たいした熱ではないのですが、電池が切れたように、気持ちがついていかなくなってしまいます。

 

結局、レジ打ちのバイトからは逃げるように辞め、2016年10月頃、着ぐるみの仕事でお世話になっていた事務所から声をかけていただき、再び着ぐるみに入れるようになり、なんとかニートに戻らずに済みました。

 

 

そして今のクマコへ

 

2017年には、同じ事務所で週に1度、事務の仕事を手伝わせていただけるようになり、現在は週に3日ほど働いています。

疲れやすいので仕事の日以外は、あまりアクティブには動けません。

 

20代も終わりが見え始め、両親の年齢も上がってきている中、いまだに親の扶養に入れてもらいながらの月収5万円の生活に、焦りと、あきれと、あきらめと。

親に対する申し訳なさと、世間に対する恥ずかしさといった、色々なものがのしかかってきて、『もうすべてが終わりだ』と絶望する気持ちと戦いながら、なんとか生きています。

それが今のクマコです。

 

 

 

今回、書いてきた出来事や気持ちについては、時間がたったせいなのか、辛かったからなのか、記憶が曖昧なものが多いので、上手く書くことが出来たかは分かりませんが、これまでの自分のことを思い返すいい機会になりました。

読んでくださった方には、退屈だったかもしれませんが・・・。

 

次回からは、クマコのジャニオタ歴について書いていこうと思います。

それでは。

読んでいただいて、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

これまでのクマコ②~激動の高校時代編~

みなさん、こんにちは。

今回は、前回に引き続きクマコのこれまでの人生についてお話していきます。

前回のお話はコチラ↓

shironomiyakumako.hatenablog.com

 

興味のない方は華麗にスルーしていただいて、興味のある方や『読んでやるか』というお優しい方々は、少し長くはなりますが、お付き合いくださいね。

 

それでは「これまでのクマコ」第二章…激動の高校時代

 

はじまり~はじまり~

 

 

 

思いがけずトップになり舞い上がるクマコ

 

クマコはもともと真面目な性格でしたから、授業をしっかり受けて、テスト勉強もしっかりやっておりました。

そのため、中学時代は学年で上の下くらいの成績でした。

(ここでいう成績は学調などのテストの成績です)

数学だけはどうしても苦手でしたが、他の科目は、まあまあ出来る方でした。

また、前回お話ししたように、クマコは「いい子」ちゃんだったので、通信簿ではオール5もとったことがあります。そうです。ささやかな自慢です。

 

さて、当時のクマコは「不良」と呼ばれる方々が、とても苦手で、きちんとやるべきことをやらない人達が嫌いでした。

そういう人たちがいない高校はどこかと考え、単純に進学校なら大丈夫だろうと。

そんな理由で志望校を決めました。

やりたいことや行きたい大学は、いくら考えても思いつかなかったので、その先については特に考えず、女子なのに、制服さえも確認せずに志望校を決めてしまったのです。

この時の選択は、今でも少し後悔しています。

制服については少しではなかったかもですが(笑)

 

金銭的な理由で『どうしても公立じゃなきゃダメ!』という親からのプレッシャーや、「レベルの高い進学校に通う兄」という存在からの無言のプレッシャーを感じながら受験勉強を開始したクマコ。

(ちなみに兄も公立校で、クマコの住む地域では私立より公立の方がレベルが上でした。)

心配性な性格もあいまって、必死になって勉強します。

今となっては、当時の私の実力的に、そこまで必死にやらなくても大丈夫だったと思えるのですが、当時の私は本当に必死でした。

 

そんな必死の努力が実った私は、なんとトップの成績で志望校に合格したのです。

なにをやっても兄に勝てなかった私が、中学では上の下の成績だった私が、入学式で代表としてあいさつをしたときには、気恥ずかしいながらも努力が実ったことの喜びを感じ、舞い上がりました。

 

そして、入学後、初のテストでも学年1位を獲得。

周りの子たちから、「頭のいい子」として認知されるようになったクマコ。

俄然、やる気になり勉学に勤しんでいきました。

その後も1位、2位と、面白いほどに努力が結果につながっていきます。

高校生のクマコにとって勉強する、周りから「頭のいい子」と思われるということが、アイデンティティとなっていったのです。

 

 

クマコ、思春期痩せ症になる

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高校に入学してほどなくした頃、ソレは突然起こりました。

原因は分かりませんが、顔中にジュクジュクしたかぶれが出来るようになったのです。

楽しい高校生活を夢見ていた私は、そのかぶれによって一気にどん底に撃ち落されます。

隠しようのないところに出来たかぶれは、周りの人の好奇の目にさらされ、クマコのなけなしの自尊心を傷つけました。

もともと、見た目に対するこだわりが強かった私は、これまでに感じたことのないほどの羞恥心をおぼえ、そのせいで、それまで以上に周りの目が気になるようになってしまったのです。

 

高校2年になる頃には、かぶれはおさまっていたのに、今度は自分の体型が恥ずかしくなり、ダイエットを開始します。

元来の真面目な性格のせいなのか、強いこだわりのせいなのか、それとも勉強や友達関係へのストレスがたまっていたせいなのか…

そのダイエットは驚くほどにはかどって、高校2年の終わり頃の私は、周りが驚くほどに細くなっていました。

それでも自分では、『もっと痩せなくては』、『食べたら太る』という考えにとらわれすぎていて、おかしいことに気づきません。

寒さがこたえることと、体力が著しく低下していることは感じていましたが、自分の中ではいたって健康のつもりでした。

でも、周りは心配してくれていたようで、母が、骨のうき出た私の背中をさすりながら『死んじゃうよ…』と涙声でつぶやいていたことを今でも覚えています。

本当に親不孝な娘です。

 

結局、32㎏まで体重が減ってしまったクマコは、学校から呼び出された母と共に総合病院へ行くことになります。

( 学校としても、何かあって学校で倒れられたら困ると思っていたようで、体調が落ち着くまでは休んでいいと言われました。そりゃ、そうですよね…)

 

 最初に行った総合病院から、専門外だからと紹介された心療内科で、「思春期痩せ症」と診断され、先生に『このまま食べられなければ入院だよ』と言われて、ようやくことの重大性に気づいた私。

向精神薬などを処方されたことも手助けとなり、その日から食べられるようになりました。

 

でもそれは、そこからずっとさまよい続けることになる、深い深い迷宮の入り口に過ぎなかったのです。

 

 

クマコ、転校する

 

ようやく食べられるようになったと、みんなで喜んでいたのもつかの間、そこからは逆に過食が始まりました。

薬の影響なのか、急激に栄養を取り始めたことが関係しているのか、私には分かりませんが、何を食べても満たされず、文字通り食欲が暴走していったのです。

 

それと同時に、飲んでいる薬の影響で、自分では制御できないほどの眠気に襲われます。

もともとのクマコは、授業中に眠くなったことはなく、先生の言葉を一言一句もらすまいと必死にノートをとるような生徒でした。

進学校ということもあり、高校受験がずっと続いているような勉強量を求められる。

そんな高校で、テストで何度も学年1位をとった…

それはクマコの誇りであり、自慢であり、希望であり、いつしか存在意義のようになっていました。

そんなクマコが、授業も眠くて聞いていられない。

予習も復習も出来ない。

それは、ものすごいストレスで。

そして、そのストレスをまた、食べることで解消していく。

それが原因で急激に体重が増える…

『あんなに苦労して痩せたのに』、『勉強しなくちゃ』そう何度も何度も思いましたが、自分の意志の力だけではどうしようもありませんでした。

 

そんな日々が続き、自分を奮い立たせることが出来なくなっていった私は、母が探してくれた、週に1回の通学で大丈夫な通信制の高校への転校を決意します。

これ以上、ふがいない自分を、醜くなっていく自分を友達に見せたくはなかったのです。

 

高校3年生の1学期の最終日。

 

これが私にとって、「普通の私」でいられた最後の日となりました。

 

 

 

 

 

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これまでのクマコ①~誕生から中学生編~

みなさん、こんにちは。

今回は、これまでの私の人生について書いていこうと思います。

 

『いや、お前の人生なんて興味ないわ‼』という方は読み飛ばしていただいて、なんの問題もありません!!

…が、読んでいただくと、このブログや私という人間がどういうものか、ということが分かっていただけるのではないかな、と勝手に思っておりますので、興味のある方はお付き合いいただければ幸いです。

 

それでは、題して「これまでのクマコ」第一章…誕生から中学生まで

はじまり、はじまり~

 

 

幼少期のクマコ

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平成の世に、平凡な家庭の第2子として生まれたクマコ。

2歳上の兄の影響もあり、男勝りでやんちゃな女の子に成長します。

小さい頃の遊び相手は、兄と1歳下の従弟、そして隣の家に住む男の子。

男の子とばかり遊んでいた(字面だけみるとヤバいですね)ため、女の子らしいことが苦手。

小学生の頃には、なにかあるとすぐに泣くから女の子自体も苦手で、男の子の方が遠慮がなくていいし、『私も男の子に生まれれば良かったのに』と思っていました。

 

このころからきっと私は、ありのままの自分を受け入れることが出来ていなかったのだと思います。

 

 

兄への対抗のために優等生になったクマコ

 

私の兄は昔から出来の良い男でした。

なにをやってもよく出来て、要領もいい。

小さい頃から勉強も運動も遊びも、なにひとつとして兄に勝ったことはありません。2歳年上なのだから仕方ないとも思いますが、それでも小さい頃は、それが悔しくて悔しくて仕方がなかったのを覚えています。

 

そんな出来の良い兄に劣等感と対抗心を抱きながら育ったクマコ。

それでも小学校高学年頃になると、私にも、親や先生から褒められるものが出来ました。

それは、対人面での「感じの良さ」です。

変に正義感が強く、大人からの言いつけやルールに従順。

明るく、よく笑い、クラスの男の子とも女の子とも仲良く出来て、真面目に授業を受ける私は、自分でいうのもなんですが、大人たちからすれば都合のいい、いわゆる「いい子」でした。

そんな「いい子」の部分を褒められた私は、本当はたいして「いい子」ではないのに、という葛藤と戦いながら、その「いい子」の部分を伸ばすことに尽力し始めました。

心のどこかに、『兄に対抗するにはコレしかない』という気持ちが働いていたのではないかと思います。

 

そして、このころ芽生えた「いい子」であることへの執着が、今でも私を苦しめ続けているのです。

 

 

苦しみながらも「いい子」を極めた中学生のクマコ

 

中学生になる頃には、すっかり「いい子」が板についていた私。

中学3年生になると、部活の部長に任命され、さらに先生から頼まれて生徒会に立候補し、生徒会長になりました。

でも本当は、周りの女子からやっかまれそうで、あまり前に出たくはなかったし、私はそんな器の人間ではありません。

自分が出来ると思うことよりも大きなことを要求されることは、大きなストレスでした。

そして『いつも明るく笑顔でいなければならない』、『恥ずかしいから泣いてはいけない』と、自分に対してたくさんのルールを課しながら生活する窮屈さや、「周りから見える自分」と「本当の自分」とのギャップが、どんどん大きくなっていくことに苦しんでいました。

とはいえ元来私は、目立つことは嫌いではないし、この頃は、周りから認められている自分のことを誇りに思っていたように思います。

 

そんなこんなで、苦しいこともたくさんあった中学時代ですが、それと同時に楽しい思い出もたくさん出来ました。

今となってみれば、私にとっては、この時代が最後で最良の時代だったと思わざるを得ません。

その理由については、また次回、お話しすることにいたしましょう。

 

 

番外編:クマコの永遠の悩み

 

そんな「いい子」を極めつつあったクマコにも、年頃の女の子としての悩みがありました。

今も昔も大多数の女の子にとって「ダイエット」というものは、悩みのタネでありますが、思春期のクマコにとってもそれは大きな悩みでした。

実はクマコ、小学3年生の時にぽっちゃりデビューを果たしまして。

そのことを高学年の時、男の子にからかわれてから以来、ずっとそのことを気にしています。それは現在に至るまでです。

 

そのことがキッカケで、周りの目というものを気にするようになり、見た目に対するこだわりが強くなっていきました。

 

このこだわりが、その後のクマコの人生を大きく左右することになるなんて、このときは思いもしませんでしたが…。

 

 

 

 

 

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はじめましての自己紹介

みなさま、はじめまして。

私、シロノミヤクマコと申します。

プロフィールにもありますが、Sexy Zoneかわいいものたちが大好きな静岡在住アラサー独女です。

主に嵐さんを爆裂応援中。そしてセクゾちゃんのことは、姉のような?親のような?気持ちでで応援しております。

 

私の略歴やジャニオタ歴などは、またの機会にお話しさせていただくことにしまして、まずはこのブログを始めようと思ったキッカケをお話ししていこうかなと。

 

 

 

私がこのブログを始めた大きなキッカケは、お世話になっていた臨床心理士の先生が産休に入られ、カウンセリングを受けられなくなってしまったことでした。

 

といいますのも、私は長年、「抑うつ状態」というものに悩まされておりまして・・・

何年か前に投薬治療を開始ししましたが、症状が改善されないため、カウンセリングを受けるようになりました。

その効果もあってか、状態が落ち着いていた矢先の出来事でしたので、その後の気持ちの落ち込みがひどく、どうしたものかと思っていましたが、『気持ちを吐き出せる相手がいないならブログに書いてみればいいのでは?』と思い立ち、このブログを立ち上げるに至りました。

 

 

そしてもうひとつのキッカケは、長年応援し続けてきた嵐さんが「大人」になってしまった・・・と感じるようになったこと。

そう感じるようになってからというもの、アイドルとファンとの健全な関係とは何か?と考えるようになりました。

 

今まで私は、何かにすがるように嵐さんのことを応援してきたワケですが、嵐さんが大人として新たなステージに踏み出そうとしている今、私もファンとして嵐への愛のカタチを変えていく必要があるのではないかと感じています。

今までのように盲目的に無我夢中で愛を押し付けるのではなく、ファンとして健全に、そしてこれからも末永く嵐さんを応援していける道を探していきたいのです。

 

このブログが私にとって、そしてあわよくば私のように悩んでいるアイドルファンのみなさんにとって、いいキッカケになりますように・・・

なんて大袈裟なものではありませんが、これからいろいろと書いていきたいと思います。

 

 

・・・ブログのタイトルといい、自己紹介といい、なにやらたいそうなものが始まりそうな雰囲気が出てしまっていますが、ただのひとりごとブログですので気楽に読んでいただけたら幸いです。

これから、どうぞよろしくお願いいたします。