これまでのクマコ③~彷徨える社会人編~
みなさん、こんにちは。
今回も、前回に引き続きクマコのこれまでの人生について書いていこうと思います。
前回のお話はコチラ↓
shironomiyakumako.hatenablog.com
長々と書いてきましたが、今回で最後になりますので、今少しのお付き合いをお願い致します。
それでは、「これまでのクマコ」第三章にして最終章…さまよい続ける社会人のクマコ
はじまり~はじまり~
どん底のクマコを救った嵐
初めて自分で掴み取った居場所であった高校から、通信制の高校に転校したクマコ。
今までの仲間から離れ、急にひとりぼっちになってしまった気分でした。
週に1回の通学で大丈夫な新しい高校生活が始まると、これまで勉強に費やしていた時間から解放され、暇を持て余すようになった私は、新たな仲間を求めてバイトを始めます。
お金も欲しかったけれど、とにかく早く、新しい居場所が欲しかったのではないかと思います。
そんな想いで行ったバイト先の男の子に、1番気になっていた体型について悪口を言われ、自分でも驚くほどに傷ついて動揺したクマコ。
そのまま、そのバイトには行くことが出来なくなり、学校にも行けなくなってしまいました。
この頃から「人の悪意」というものに、それまで以上に過敏に反応するようになっていったように思います。
そこからは下り坂を転がるように気持ちがどんどん落ちていって、それとともに体重もどんどん増えていって。
最終的に体重は73㎏にまで到達。
毎日をどん底の気分で過ごすようになりました。
今まで築き上げてきたものが、あっけなく崩れていくことの恐ろしさに泣いて。
今までの仲間が将来に向けて頑張っている中、どこにも進めない自分がもどかしくて泣いて。
毎日毎日泣き続けて、薬の影響でハイになる日はあっても、やっぱり悲しくて空しくて。
『手首を切ったら楽になれるのかな』とも考えて、でもそんな勇気はなくて。
それでも泣くのは一人の時か母親といるときだけで、父親の前では気を使って、いつも通りの自分を演じていました。
そんなある日のこと、毎日泣く私の相手に疲れてしまった母親に、『カラ元気でも笑っている方がいい』と言われてしまったクマコ。
母にしか本音を言うことが出来なかったのに、その母にも本音を言えなくなり、母の前でも泣くのをやめました。
クマコは、これ以上、迷惑をかけて母に嫌われるのが怖かったのです。
だけど心は悲しいままで、その気持ちを表せなくなったら、もっと悲しくなりました。
そんな風に苦しい毎日を過ごしていたクマコを救ってくれたもの。
それは、クマコが大好きな嵐さんたちでした。
どん底の気分のまま行ったコンサートで、松本潤さんの言葉に心を救ってもらい、久しぶりに気持ちが明るくなったクマコ。
少しだけ前向きになることが出来ました。
そのコンサートについては、またの機会に詳しく書きたいと思います。
クマコ新たな居場所を得る
嵐のおかげで少し前を向いたクマコ。
その後も、かつての仲間と共に卒業できなかったことが辛くて高校の卒業式に参加できなかったり。
みんなが大学に進学して、新たな道を歩み始めているのに、自分だけ取り残されてしまったような孤独感に押しつぶされそうになったりと、色々な想いを抱きながらも、嵐にもらった希望の光を抱きしめて、なんとか生き抜いていきます。
(と、思っていたのですが・・・
この頃の、この気持ちを消化できないまま無理やり進んできたせいで、今でもこの頃の気持ちに苦しめられている気がします。)
短期のバイトを経験して自信がついたクマコは、新たにスポーツショップでバイトを始めました。
そのバイト先で、クマコにとって久しぶりに楽しい毎日が訪れます。
同年代の仲間も出来て、遊びにも連れて行ってもらい、年相応の女の子として恋もして、ちゃんとお金も稼いで。
まだ薬も飲んでいましたが、気持ちも落ち着いて、ダイエットもはかどるようになり、ようやく「人並みの自分」に戻れた気がしました。
少し自信も復活して、成人式にも行くことが出来ました。
しかし、そんな穏やかな毎日を過ごしていたクマコに、またも影が忍び寄ります・・・。
クマコ、ニートになる
なにが原因だったのか。いつから始まっていたのか。
それは今のクマコにも確かなことは分かりません。
楽しかったはずの毎日が、どうして崩れていってしまったのか。
あの頃の自分を振り返ってみて、考えられることを書いていこうと思います。
バイトも続いて、少しだけ自信を取り戻したクマコは、専門学校に進学することにしました。
同級生より1年遅れで、ようやく進学出来ることに喜びを感じていたクマコでしたが、1カ月もたたない内に何故だか、学校に行けなくなってしまいます。
それは、周りの子たちに合わせることに疲れたせいなのか、県外の学校で通学が大変だったせいなのか・・・。
今となっては自分でもよく分かりませんが、せっかくお金を出してもらって通い始めた学校をすぐにやめてしまったこと。
この事実だけは確かで。
そして、『また両親に迷惑をかけてしまった。』
その想いだけが強く残りました。
学校に通い始めるからと、土日だけにしてもらっていたバイト先の人たちには、すぐにやめてしまったとは言い出せず、空いた時間で自動車学校に行くことに。
しかし、その自動車学校も仮免許前にやめてしまい、どんどん自信がなくなって自己嫌悪に陥っていってしまいました。
この時の経験が、後のニート生活へと進む大きな原因のひとつではないでしょうか。
そしてもうひとつ、強く記憶に残っている出来事があります。
それは、バイト先で仲良くなった仲間たちに、自分の過去の経験(思春期痩せ症のことなど)を話すことが出来た、少し後のことでした。
その中の1人のおばさんに休憩時間に呼び出され、1対1の状況で『周りが見えていない』、『調子に乗っている』と注意されたのです。
久しぶりの楽しい毎日に、周りの人たちの気持ちを思いやることを忘れていたのでしょうか。
今となってはもう分かりませんが、そのおば様の目にはそう映っていたようで。
私のためを思って言ってくれたとのことでしたが、当時の私にはとてもショッキングな出来事でした。
この出来事はその後のクマコにも大きく影響を与えています。
自分ではそんなつもりはなくても、悪く思われてることがあるのだと痛感したことで、何をするにも考えすぎるようになっていきました。
こうして少しずつ、楽しい毎日に綻びが生じ始めた頃、バイト先にも変化が。
店長さんが変わったことで、みんなの雰囲気が悪くなり、それまでのように和気あいあいとした職場ではなくなってしまったのです。
それと重なるようにして、同居の祖父の病気が発覚。
色々なことが合わさって、クマコの体調はどんどん悪くなっていきます。
夜中の2時にならないと眠れない。そのせいで朝は起きられず、体中が痛くてたまらない。
そんな日々を過ごす中、バイト先で慕っていた社員の方に接客態度の消極性について叱られ、涙が止まらなくなり過呼吸に。
そうしてついに、ようやく見つけたと思った居場所からも去ることにしました。
もうとにかく、ゆっくり休みたい。
この時は、ただただその想いでいっぱいでした。
こうしてニートとなったクマコ。
その数か月か後、短期のバイトをしてみるも、やっぱり上手く出来ず、そんな自分に嫌気がさして、どこかに消えてしまいたくなり1人で遠くまで歩いてみましたが、結局すぐに帰ってきました。
あまりに早く帰ってきたので、親はこの時のプチ家出には気づきませんでした。
でも、このプチ家出のときの絶望的な気持ちは、今でも忘れることが出来ません。
また機会がありましたら、この時のことについても書けたらな、と思います。
ニートからの脱却、そして大好きな祖父の死
そうして、2~3年の間ニートとして過ごしたクマコ。
その日々は劣等感、罪悪感との戦いでした。
そんな気持ちが影響してか、毎日、朝起きると体中が痛くてたまらず、母のすすめで今の病院に通うようになりました。
2012年頃、サインバルタという薬を飲み始め、少しずつやる気を取り戻していったクマコは、2013年頃に短期の派遣から少しずつ仕事を始め、顔を出さなくてもいい着ぐるみの仕事が自分に合い、やっと仕事が続くように。
週1日2日の仕事をしばらく続け、調子がよくなったクマコは、2015年10月頃にスーパーのレジ打ちのバイトを始め、週4日働けるようになりました。
もう少しで、「普通の自分」に戻れる!!
そう思っていた矢先、年明けすぐに、闘病中だった祖父が自宅で倒れて救急車で運ばれました。
その後、家に戻ってくるも寝たきりとなり、容体も急激に悪化して、すぐに亡くなってしまったのです。
初めて家族の死を目の当たりにしたことの衝撃と、大好きな祖父を亡くした喪失感と悲しさ。
それは自覚している以上に大きな出来事だったようで、自分では気づかないうちに体調に変化が現れます。
時を同じくして、好きだった着ぐるみの仕事が、会社の都合で出来なくなってしまい、そのこともクマコの気持ちを辛くしました。
3カ月に1回というペースで熱を出して寝込むようになったクマコ。
たいした熱ではないのですが、電池が切れたように、気持ちがついていかなくなってしまいます。
結局、レジ打ちのバイトからは逃げるように辞め、2016年10月頃、着ぐるみの仕事でお世話になっていた事務所から声をかけていただき、再び着ぐるみに入れるようになり、なんとかニートに戻らずに済みました。
そして今のクマコへ
2017年には、同じ事務所で週に1度、事務の仕事を手伝わせていただけるようになり、現在は週に3日ほど働いています。
疲れやすいので仕事の日以外は、あまりアクティブには動けません。
20代も終わりが見え始め、両親の年齢も上がってきている中、いまだに親の扶養に入れてもらいながらの月収5万円の生活に、焦りと、あきれと、あきらめと。
親に対する申し訳なさと、世間に対する恥ずかしさといった、色々なものがのしかかってきて、『もうすべてが終わりだ』と絶望する気持ちと戦いながら、なんとか生きています。
それが今のクマコです。
今回、書いてきた出来事や気持ちについては、時間がたったせいなのか、辛かったからなのか、記憶が曖昧なものが多いので、上手く書くことが出来たかは分かりませんが、これまでの自分のことを思い返すいい機会になりました。
読んでくださった方には、退屈だったかもしれませんが・・・。
次回からは、クマコのジャニオタ歴について書いていこうと思います。
それでは。
読んでいただいて、ありがとうございました。
これまでのクマコ②~激動の高校時代編~
みなさん、こんにちは。
今回は、前回に引き続きクマコのこれまでの人生についてお話していきます。
前回のお話はコチラ↓
shironomiyakumako.hatenablog.com
興味のない方は華麗にスルーしていただいて、興味のある方や『読んでやるか』というお優しい方々は、少し長くはなりますが、お付き合いくださいね。
それでは「これまでのクマコ」第二章…激動の高校時代
はじまり~はじまり~
思いがけずトップになり舞い上がるクマコ
クマコはもともと真面目な性格でしたから、授業をしっかり受けて、テスト勉強もしっかりやっておりました。
そのため、中学時代は学年で上の下くらいの成績でした。
(ここでいう成績は学調などのテストの成績です)
数学だけはどうしても苦手でしたが、他の科目は、まあまあ出来る方でした。
また、前回お話ししたように、クマコは「いい子」ちゃんだったので、通信簿ではオール5もとったことがあります。そうです。ささやかな自慢です。
さて、当時のクマコは「不良」と呼ばれる方々が、とても苦手で、きちんとやるべきことをやらない人達が嫌いでした。
そういう人たちがいない高校はどこかと考え、単純に進学校なら大丈夫だろうと。
そんな理由で志望校を決めました。
やりたいことや行きたい大学は、いくら考えても思いつかなかったので、その先については特に考えず、女子なのに、制服さえも確認せずに志望校を決めてしまったのです。
この時の選択は、今でも少し後悔しています。
制服については少しではなかったかもですが(笑)
金銭的な理由で『どうしても公立じゃなきゃダメ!』という親からのプレッシャーや、「レベルの高い進学校に通う兄」という存在からの無言のプレッシャーを感じながら受験勉強を開始したクマコ。
(ちなみに兄も公立校で、クマコの住む地域では私立より公立の方がレベルが上でした。)
心配性な性格もあいまって、必死になって勉強します。
今となっては、当時の私の実力的に、そこまで必死にやらなくても大丈夫だったと思えるのですが、当時の私は本当に必死でした。
そんな必死の努力が実った私は、なんとトップの成績で志望校に合格したのです。
なにをやっても兄に勝てなかった私が、中学では上の下の成績だった私が、入学式で代表としてあいさつをしたときには、気恥ずかしいながらも努力が実ったことの喜びを感じ、舞い上がりました。
そして、入学後、初のテストでも学年1位を獲得。
周りの子たちから、「頭のいい子」として認知されるようになったクマコ。
俄然、やる気になり勉学に勤しんでいきました。
その後も1位、2位と、面白いほどに努力が結果につながっていきます。
高校生のクマコにとって勉強する、周りから「頭のいい子」と思われるということが、アイデンティティとなっていったのです。
クマコ、思春期痩せ症になる
高校に入学してほどなくした頃、ソレは突然起こりました。
原因は分かりませんが、顔中にジュクジュクしたかぶれが出来るようになったのです。
楽しい高校生活を夢見ていた私は、そのかぶれによって一気にどん底に撃ち落されます。
隠しようのないところに出来たかぶれは、周りの人の好奇の目にさらされ、クマコのなけなしの自尊心を傷つけました。
もともと、見た目に対するこだわりが強かった私は、これまでに感じたことのないほどの羞恥心をおぼえ、そのせいで、それまで以上に周りの目が気になるようになってしまったのです。
高校2年になる頃には、かぶれはおさまっていたのに、今度は自分の体型が恥ずかしくなり、ダイエットを開始します。
元来の真面目な性格のせいなのか、強いこだわりのせいなのか、それとも勉強や友達関係へのストレスがたまっていたせいなのか…
そのダイエットは驚くほどにはかどって、高校2年の終わり頃の私は、周りが驚くほどに細くなっていました。
それでも自分では、『もっと痩せなくては』、『食べたら太る』という考えにとらわれすぎていて、おかしいことに気づきません。
寒さがこたえることと、体力が著しく低下していることは感じていましたが、自分の中ではいたって健康のつもりでした。
でも、周りは心配してくれていたようで、母が、骨のうき出た私の背中をさすりながら『死んじゃうよ…』と涙声でつぶやいていたことを今でも覚えています。
本当に親不孝な娘です。
結局、32㎏まで体重が減ってしまったクマコは、学校から呼び出された母と共に総合病院へ行くことになります。
( 学校としても、何かあって学校で倒れられたら困ると思っていたようで、体調が落ち着くまでは休んでいいと言われました。そりゃ、そうですよね…)
最初に行った総合病院から、専門外だからと紹介された心療内科で、「思春期痩せ症」と診断され、先生に『このまま食べられなければ入院だよ』と言われて、ようやくことの重大性に気づいた私。
向精神薬などを処方されたことも手助けとなり、その日から食べられるようになりました。
でもそれは、そこからずっとさまよい続けることになる、深い深い迷宮の入り口に過ぎなかったのです。
クマコ、転校する
ようやく食べられるようになったと、みんなで喜んでいたのもつかの間、そこからは逆に過食が始まりました。
薬の影響なのか、急激に栄養を取り始めたことが関係しているのか、私には分かりませんが、何を食べても満たされず、文字通り食欲が暴走していったのです。
それと同時に、飲んでいる薬の影響で、自分では制御できないほどの眠気に襲われます。
もともとのクマコは、授業中に眠くなったことはなく、先生の言葉を一言一句もらすまいと必死にノートをとるような生徒でした。
進学校ということもあり、高校受験がずっと続いているような勉強量を求められる。
そんな高校で、テストで何度も学年1位をとった…
それはクマコの誇りであり、自慢であり、希望であり、いつしか存在意義のようになっていました。
そんなクマコが、授業も眠くて聞いていられない。
予習も復習も出来ない。
それは、ものすごいストレスで。
そして、そのストレスをまた、食べることで解消していく。
それが原因で急激に体重が増える…
『あんなに苦労して痩せたのに』、『勉強しなくちゃ』そう何度も何度も思いましたが、自分の意志の力だけではどうしようもありませんでした。
そんな日々が続き、自分を奮い立たせることが出来なくなっていった私は、母が探してくれた、週に1回の通学で大丈夫な通信制の高校への転校を決意します。
これ以上、ふがいない自分を、醜くなっていく自分を友達に見せたくはなかったのです。
高校3年生の1学期の最終日。
これが私にとって、「普通の私」でいられた最後の日となりました。
つづきはコチラ↓
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これまでのクマコ①~誕生から中学生編~
みなさん、こんにちは。
今回は、これまでの私の人生について書いていこうと思います。
『いや、お前の人生なんて興味ないわ‼』という方は読み飛ばしていただいて、なんの問題もありません!!
…が、読んでいただくと、このブログや私という人間がどういうものか、ということが分かっていただけるのではないかな、と勝手に思っておりますので、興味のある方はお付き合いいただければ幸いです。
それでは、題して「これまでのクマコ」第一章…誕生から中学生まで
はじまり、はじまり~
幼少期のクマコ
平成の世に、平凡な家庭の第2子として生まれたクマコ。
2歳上の兄の影響もあり、男勝りでやんちゃな女の子に成長します。
小さい頃の遊び相手は、兄と1歳下の従弟、そして隣の家に住む男の子。
男の子とばかり遊んでいた(字面だけみるとヤバいですね)ため、女の子らしいことが苦手。
小学生の頃には、なにかあるとすぐに泣くから女の子自体も苦手で、男の子の方が遠慮がなくていいし、『私も男の子に生まれれば良かったのに』と思っていました。
このころからきっと私は、ありのままの自分を受け入れることが出来ていなかったのだと思います。
兄への対抗のために優等生になったクマコ
私の兄は昔から出来の良い男でした。
なにをやってもよく出来て、要領もいい。
小さい頃から勉強も運動も遊びも、なにひとつとして兄に勝ったことはありません。2歳年上なのだから仕方ないとも思いますが、それでも小さい頃は、それが悔しくて悔しくて仕方がなかったのを覚えています。
そんな出来の良い兄に劣等感と対抗心を抱きながら育ったクマコ。
それでも小学校高学年頃になると、私にも、親や先生から褒められるものが出来ました。
それは、対人面での「感じの良さ」です。
変に正義感が強く、大人からの言いつけやルールに従順。
明るく、よく笑い、クラスの男の子とも女の子とも仲良く出来て、真面目に授業を受ける私は、自分でいうのもなんですが、大人たちからすれば都合のいい、いわゆる「いい子」でした。
そんな「いい子」の部分を褒められた私は、本当はたいして「いい子」ではないのに、という葛藤と戦いながら、その「いい子」の部分を伸ばすことに尽力し始めました。
心のどこかに、『兄に対抗するにはコレしかない』という気持ちが働いていたのではないかと思います。
そして、このころ芽生えた「いい子」であることへの執着が、今でも私を苦しめ続けているのです。
苦しみながらも「いい子」を極めた中学生のクマコ
中学生になる頃には、すっかり「いい子」が板についていた私。
中学3年生になると、部活の部長に任命され、さらに先生から頼まれて生徒会に立候補し、生徒会長になりました。
でも本当は、周りの女子からやっかまれそうで、あまり前に出たくはなかったし、私はそんな器の人間ではありません。
自分が出来ると思うことよりも大きなことを要求されることは、大きなストレスでした。
そして『いつも明るく笑顔でいなければならない』、『恥ずかしいから泣いてはいけない』と、自分に対してたくさんのルールを課しながら生活する窮屈さや、「周りから見える自分」と「本当の自分」とのギャップが、どんどん大きくなっていくことに苦しんでいました。
とはいえ元来私は、目立つことは嫌いではないし、この頃は、周りから認められている自分のことを誇りに思っていたように思います。
そんなこんなで、苦しいこともたくさんあった中学時代ですが、それと同時に楽しい思い出もたくさん出来ました。
今となってみれば、私にとっては、この時代が最後で最良の時代だったと思わざるを得ません。
その理由については、また次回、お話しすることにいたしましょう。
番外編:クマコの永遠の悩み
そんな「いい子」を極めつつあったクマコにも、年頃の女の子としての悩みがありました。
今も昔も大多数の女の子にとって「ダイエット」というものは、悩みのタネでありますが、思春期のクマコにとってもそれは大きな悩みでした。
実はクマコ、小学3年生の時にぽっちゃりデビューを果たしまして。
そのことを高学年の時、男の子にからかわれてから以来、ずっとそのことを気にしています。それは現在に至るまでです。
そのことがキッカケで、周りの目というものを気にするようになり、見た目に対するこだわりが強くなっていきました。
このこだわりが、その後のクマコの人生を大きく左右することになるなんて、このときは思いもしませんでしたが…。
つづきはコチラ↓
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はじめましての自己紹介
みなさま、はじめまして。
私、シロノミヤクマコと申します。
プロフィールにもありますが、嵐・Sexy Zone・かわいいものたちが大好きな静岡在住アラサー独女です。
主に嵐さんを爆裂応援中。そしてセクゾちゃんのことは、姉のような?親のような?気持ちでで応援しております。
私の略歴やジャニオタ歴などは、またの機会にお話しさせていただくことにしまして、まずはこのブログを始めようと思ったキッカケをお話ししていこうかなと。
私がこのブログを始めた大きなキッカケは、お世話になっていた臨床心理士の先生が産休に入られ、カウンセリングを受けられなくなってしまったことでした。
といいますのも、私は長年、「抑うつ状態」というものに悩まされておりまして・・・
何年か前に投薬治療を開始ししましたが、症状が改善されないため、カウンセリングを受けるようになりました。
その効果もあってか、状態が落ち着いていた矢先の出来事でしたので、その後の気持ちの落ち込みがひどく、どうしたものかと思っていましたが、『気持ちを吐き出せる相手がいないならブログに書いてみればいいのでは?』と思い立ち、このブログを立ち上げるに至りました。
そしてもうひとつのキッカケは、長年応援し続けてきた嵐さんが「大人」になってしまった・・・と感じるようになったこと。
そう感じるようになってからというもの、アイドルとファンとの健全な関係とは何か?と考えるようになりました。
今まで私は、何かにすがるように嵐さんのことを応援してきたワケですが、嵐さんが大人として新たなステージに踏み出そうとしている今、私もファンとして嵐への愛のカタチを変えていく必要があるのではないかと感じています。
今までのように盲目的に無我夢中で愛を押し付けるのではなく、ファンとして健全に、そしてこれからも末永く嵐さんを応援していける道を探していきたいのです。
このブログが私にとって、そしてあわよくば私のように悩んでいるアイドルファンのみなさんにとって、いいキッカケになりますように・・・
なんて大袈裟なものではありませんが、これからいろいろと書いていきたいと思います。
・・・ブログのタイトルといい、自己紹介といい、なにやらたいそうなものが始まりそうな雰囲気が出てしまっていますが、ただのひとりごとブログですので気楽に読んでいただけたら幸いです。
これから、どうぞよろしくお願いいたします。